神戸で貿易商を営んでいたイギリス人・アーサー・ヘスケス・グルームが、六甲山に4ホールのゴルフコースを作ったのが1901年。 日本のゴルフ史の夜明けでした。 それからおよそ110年の歳月を経て、我が国のゴルフ界は、目覚しい発展と曲折を繰り返してきました。
日本で最初のプロゴルファー・福井覚治プロの誕生は、1920年(大正9年)のことです。 その後、長い間プロゴルファーは男性だけの職業でした。 1960年(昭和35年)ごろになって、全国のゴルフ場や練習場の女子従業員の中から女性もプロフェッショナルとして生計を立てたい、という気運が高まり始めました。そうした中、1961年(昭和36年)4月24日、当時東京・晴海にあった東雲ゴルフ場において『日本女子ゴルフ同好会競技大会』(全国ゴルフ場女子従業員競技会)が開催されました。
ゴルフ場や練習場に勤務する“女子プロゴルファーの卵”28人が集まって、ハンディキャップ制で行なわれたこの大会が、 日本女子プロゴルフ誕生の嚆矢とされています。この大会は、1957年(昭和32年)霞ヶ関カンツリー倶楽部で開かれた『カナダカップ』に優勝し、我が国に最初のゴルフブームをもたらした故・中村寅吉と、ゴルフショップ経営の傍ら彼女たちの物心両面の支援者だった松島杲三、 それに当時の東雲ゴルフ場のヘッドプロだった川波義太郎らの支援で開かれました。
その後数年のいろいろな努力が実を結び、1967年(昭和42年)日本プロゴルフ協会は女子のプロテストを実施、 日本プロゴルフ協会女子部としてようやく女性にプロフェッショナルとしての門戸を開くことになりました。 10月25日川越カントリークラブで行なわれたこのプロテストは、26人が受験、全員合格し日本で初の女子プロゴルファーが誕生しました。同時に、すでにこの時点でプロ活動をしていた15人にもライセンスが与えられ、計41名が第1期生となりプロの第一歩を踏み出したのです。
1969年7月 第2回日本女子プロゴルフ選手権(貞宝CC)
翌1968年(昭和43年)7月、 記念すべき『第1回日本女子プロゴルフ選手権大会』が、静岡県の天城カントリー倶楽部でホールのストロークプレーで行なわれ、 樋口久子が3オーバー・222ストロークで優勝、栄えある初代チャンピオンとなりました。
賞金総額45万円、優勝賞金15万円と、現在のトーナメント賞金に比べるとごく僅かなものでした。 また同年12月に、埼玉県のTBS越谷ゴルフクラブで開催された『TBS女子オープン』(1971年から日本女子オープン)には、 女子ゴルフ界初のオープン競技としてアマチュアを含む98人の選手が参加しました。 2日間36ホールの戦いを制したのも樋口久子。 以後、彼女の圧倒的な強さが“女王”の称号に繋がったのです。
樋口は、その後日本女子プロゴルフ選手権は7連勝を含む9勝、日本女子オープンは4連勝を含む8勝と活躍し、 1972年佐々木マサ子が日本女子オープンを制するまでは、公式戦無敗を誇ったのです。 この間、樋口は、佐々木マサ子とともに1970年(昭和45年)からアメリカ女子ツアーに参戦し、 協会運営のノウハウやファッションからライフスタイルといったものを学び、日本に持ち帰りました。 今ではどのプレーヤーもやっている“歩測”も、この時学んだものの一つだと言います。
1971年 全米女子選手権
樋口久子19位 佐々木まさ子23位
1974年 日本女子プロゴルフ協会が正式に発足。
中村初代会長を囲んで。
そうした黎明期を経た1974年(昭和49年)2月1日、日本プロゴルフ協会の進言もあり、 日本プロゴルフ協会女子部から独立「日本女子プロゴルフ協会」として自主運営の道を歩くことになりました。 初代会長・中村寅吉、理事長・二瓶綾子の体制で新しくスタートしたのです。
女子プロゴルファーの認知度も定着し、アマチュアゴルフ界をはじめソフトボール、バレーボール、 陸上競技といったスポーツ各界から秀れた資質を持った一流選手が、数多く入会してきました。 1968年には2試合しかなかったトーナメントも、この1974年には年間18試合にまで増大、賞金総額も1億円を超える規模となり、 多くの関係者の努力もあり女性のプロスポーツとしての基盤をしっかりと築いていった時代でした。
協会が創設10周年を迎えた1977年(昭和52年)はまた、忘れることのできない年となりました。 6月に開かれた『全米女子プロゴルフ選手権』で、樋口久子が優勝という金字塔を成し遂げたのです。 米女子ツアー挑戦8年目の彼女自身にとっても通算40勝目となる快挙でした。
1974年にプロ入りした岡本綾子が、初めて日本の賞金女王になったのは1981年のことです。 この年8勝と勝ちまくった岡本は、翌1982年(昭和57年)から米女子ツアーに本格挑戦、 1982年のアリゾナコパークラシックの優勝を皮切りに欧米ツアー18勝という輝かしい戦績を残しました。 中でも特筆すべきは1987年に米女子ツアーのマネークイーンになったことでしょう。 ツアー最終戦となったマツダジャパンクラシック会場(武蔵丘GC)でのアメリカから参加した選手たちの肩車による祝福は、 彼女の快挙を一層印象強くしました。奇しくもこの年は、樋口の全米女子プロ制覇からちょうど10年後のことでした。
1977年 樋口久子 全米女子プロ制覇
1987年
米ツアーの賞金女王になった岡本綾子は内閣総理大臣賞を授与。
1980年代の涂阿玉は5年連続6回の賞金女王に。
この間国内では、大迫たつ子、涂阿玉、森口祐子、吉川なよ子といった選手が台頭、大活躍をしました。 中でも1980年代に入ってからの涂阿玉の強さはすさまじく、 1982年からの8年間で6回もの賞金女王に輝くなど、まさに圧倒的なものでした。
1987年12月7日、日本女子プロ協会は文部省の指導のもとに社団法人としての新たなスタートを切りました。 それとともに、翌1988年には、より充実したトーナメントの開催を行なっていくため、主催者や関係各位の協力を求め、適正な基準に基づく円滑な運営・管理を制度化し実施する「ツアー制度」を導入、プロスポーツの競技団体としての整備を行ないました。
1980年代の後半から90年代に入り、新しい実力者たちが登場し、女子プロゴルフ界は群雄割拠の様相を呈してきました。 小林浩美、塩谷育代、平瀬真由美、服部道子、福嶋晃子といった選手たちが国内外で活躍し、日本の女子プロゴルフ界全体が底上げされました。 樋口久子、岡本綾子に続いて海外ツアーに挑戦するプレーヤーも徐々に現われ、中でも小林浩美、福嶋晃子は米女子ツアーでも優勝を飾りました。
宮里藍
不動裕理
2000年代に入ると、不動裕理がLPGAツアー史上の平均ストロークや年間獲得賞金など数々の記録を更新し、 2003年には部門別ランキング全部門制覇の偉業を果たしました。2004年は通算30勝を達成し、史上最年少での永久シード権を獲得。 2005年には6年連続の賞金女王に輝き。“不動裕理の時代”は一層色濃くなりました。
その不動を追う選手の中で、2003年の『ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン』でアマチュアながら見事優勝の栄冠を手にした宮里藍が、この優勝を機にプロへ転向。翌年の2004年には年間4勝を挙げて最終戦まで賞金女王争いを演じ、プロスポーツ界初の10代での獲得賞金1億円突破など数々の最年少記録を塗り替えました。宮里は翌2005年にも7勝を挙げ、女子プロゴルフ人気の火付け役となりました。そして2005年2月、南アフリカで行なわれた『第1回ワールドカップ女子ゴルフ』で、宮里藍・北田瑠衣のコンビが優勝という快挙を成し遂げました。
2006年には、宮里がQTをトップで通過し米女子ツアーにフル参戦。 2006年は大山志保が年間5勝を挙げ、LPGAツアー史上最高額(当時)の賞金を獲得し、不動が6年間守り続けた賞金女王の座を奪取しました。また、初優勝者が7名も出るなど新世代の台頭も見られた年でした。 2005年から始まった男子ツアー(JGTO)、男子シニアツアー(PGA)、 女子ツアー(LPGA)の代表者が戦う「3ツアーズチャンピオンシップ」で第2回大会であるこの年、 LPGAチームが見事優勝を果たすことができました。
横峯さくら
翌2007年は、上田桃子が21歳でLPGAツアー史上最年少の賞金女王の座を獲得しました。 2008年は、初戦から17試合目まで毎試合優勝者が変わり、ベテラン・中堅・若手それぞれが意地を見せ、大混戦の1年となりました。 中でも古閑美保が最終戦・最終日・最終ホールで逆転賞金女王の座を掴んだのは、最後まで何が起きるかわからない、まさに2008年のLPGAツアーを象徴する結末となりました。
そして2009年も前年と同様に、最終戦での逆転賞金女王の決定という劇的な展開となりました。 諸見里しのぶ、横峯さくら、有村智恵の3人による熾烈な賞金女王争いの末、横峯さくらが最終戦で逆転優勝を飾り、ツアー史上最高額となる年間獲得賞金1億7501万6384円を獲得し、自身初の賞金女王の座に輝きました。この他、賞金ランキング上位4名が年間獲得賞金1億円を突破、年間のギャラリー数も60万人を超え、 10年前に比べ2倍のギャラリーが会場に訪れるという輝かしいシーズンとなりました。
こうした若手・中堅の活躍が目立つ中、2004年には、 これまでツアーを支えてきてくれた選手たちによる熟練された技を随所に見せるシニアトーナメントが始まり、 2008年には「レジェンズツアー」と名称を一新して、2009年には2試合が開催されました。 一方、日本女子プロゴルフ協会は、経済的な問題をはじめ、先の見えないさまざまな社会環境の中で、 新しい時代に対応する制度改革に取り組み、有識者や会員などの協力を得て1999年に組織改革委員会を発足、約3年をかけて改革を行ないました。 改革の骨子はトーナメント・プレーヤーズ・ディビジョン(TPD)とゴルフ・ビジネス・ディビジョン(GBD)を明確に分け、それぞれの部門の合理的、機能的な発展を目指して活動できるような環境を作り上げることでした。 さらに組織改革委員会は、新しい出場資格やQT制度など、 真に実力のあるプレーヤーがツアーに出られる新しい仕組みを作ることでトーナメントの活性化を図りました。 トーナメントのほかに、ゴルフの普及とアマチュアゴルファーの育成を目的に指導者(ティーチングプロフェッショナル)の養成も行なってきました。
1988年には、健全なゴルファーの育成、ゴルフ技術、ルール及びマナー研究練磨し、 その指導普及を図るためのゴルフ指導者の資質向上および資格認定を行なうという事業目的のもと、 「インストラクター資格認定制度」を発足しました。 2002年には、社団法人日本プロゴルフ協会(PGA)と共に「インストラクター資格認定制度」の改正を行ない、資格認定等級を4段階から3段階へと改めると共に、「インストラクター資格」という資格名称を「ティーチングプロ資格」へ改称しました。 2003年にはティーチングプロフェッショナル会員を協会会員(民法上の社員)と定めると共に、制度名称を「ティーチングプロ資格認定制度」から「ティーチングプロフェッショナル資格認定制度」に改め、 資格名称を「ティーチングプロ資格」から「ティーチングプロフェッショナル資格」へと改称しました。 現在はPGAと共に認定講習を行ない、ティーチングプロとして相応しい能力を備えた指導者を養成しています。 また、日本女子プロゴルフ協会では、1994年、 ティーチングプロフェッショナル資格を取得しようとする者を対象に指導員助手(現ティーチングアシスタント)制度を開始しました。 制度発足初年度には22名だった登録者も現在は73名が登録し、ティーチングプロフェッショナル資格取得を目指し、日々自己研鑽に励んでいます。
公益法人として、また、子どもたちの健全育成の担い手としての立場から積極的にジュニアゴルフの普及活動を行なってきました。 一人でも多くの子どもたちにゴルフに触れてもらう機会を提供するために、トーナメント会場で体験教室を開催したり、 「キッズゴルフ」など全国各地でジュニアや親子を対象とした体験イベントを実施してきました。 2006年からは福島県富岡町と共催で『全日本小学生ゴルフトーナメント』、 2008年からは『スタジオアリス女子オープン ジュニアカップ』を開催し、ゴルフ経験者が技術的にも人間的にも成長できる機会を提供しています。 また、ジュニアゴルフ普及活動の一環として、協会独自にジュニア指導者育成研修制度を開始し、 ジュニアを専門に指導できる人材を育成しています。 2003年に始まったこの制度では、技術指導だけでなく子どもに接する時の心構えなど、子どもの成長過程に合った指導方法を習得し、それらの知識と技術を元に全国各地で子どもたちにゴルフの楽しさを伝えています。
2007年10月にLPGA創立40周年を記念して、LPGAと女子プロゴルファーを心から愛し、応援してくださるファンの皆様と共に、これからも歩んでいくためにLPGAオフィシャルファンクラブ「LPGA CLUB」を開設いたしました。日本女子プロゴルフ協会は今後も、スポーツとしてのゴルフの普及を目指すとともに、 一人でも多くのゴルファーとゴルフファンを獲得するために、あらゆる活動に取り組んでいきます。